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枠について

母国語以外の言語の効用

☆「母国語はその人が出生し、母に抱かれ、家庭に育ち、
 世間や社会と交渉するうちに体得される宿命的な束縛である」
 (間直之助『猿の愛情』法政大学出版局、1954)

・物事を真剣に考えるとき、言語を用いずに考えているような気がすることがあります。
 その場合、自分の考えに当てはまるような言葉を、頭の中から探し出してから、話をします。
 上手く合う言葉が見つからない場合も多く、
 そういう時は、少しでも合う言葉を探そうと、考え込んでしまいます。
 ラッシュ・アワーの時に多くの人がランダムに改札に向かうように、
 色々な思いが次から次へとやって来るのですが、
 言語という改札を通り抜けることができるのは、一人ずつ、ちょっとずつです。
 混雑すればするほど、思いが強くなればなるほど、改札をスムーズに通過することがむずかしくなり、
 多くの思いは改札を通らずにどこかへ行ってしまいます。
 彼と話をしているときも、よく、5分間位黙り込むそうです。
 (自分としては30秒程度だと思っていたのですが。)
 以前友人と電話で話をしていたときは、10分間以上黙って考え込んでいたそうです。
 (自分としては3分程度だと思っていたのですが。)
 彼女も、よく、電話で、10分以上も待ってくれましたよね。すごいなぁ。

 また、自分が感じていること、考えていることに、言葉が追い付かなくて、
 数日間あるいは数週間あるいは数年かけて、やっと、何とか、言語化できることもあります。
 それでもまだ、思うように十分に言語化できず、もどかしく感じることもあります。
 ちょっとばかり、「心あまりて、ことばたらず」の状態です。

・ところで、以前にも書きましたが、
 歌人・劇作家・演出家で、自称「職業=寺山修司」である寺山修司と、画家の岡本太郎は、
 彼らの著した文献からみて、境界性人格障害だったに違いないと思われます。

・寺山修司はどもり気味だったと聞きます。
 でも、どもるというよりは、
 彼は日常生活で話をするときは、間氏のいうように日本語に束縛され、かつ、
 どんどん溢れるように湧き出てくる彼の心に言葉が追い付かなかったのではないか、と思うのです。
 そして、映画や演劇やその他の色々な活動において、
 湧き止まない心を、これでもか、これでもかと、目一杯展開させていったように思うのです。
 その一方で、寺山修司は、俳句や短歌も書いてもいて、やっぱり、とんでもなく、すごい人だなぁ。

・また、岡本太郎がフランス語を話しているところをテレビで見たことがあるという友人によると、
 岡本太郎は、恐ろしいほど流暢にフランス語を話していたそうです。
 日本語を話しているときの印象とは全く異なり、非常に驚いたそうです。
 岡本太郎は18歳でフランスに留学し、10年ほど過ごしたそうですが、
 フランス語で話すことで、日本語という「宿命的な束縛」から放たれたのではないかな、と、
 思いました。

・前回の文章で、母国語以外の言語は、
 今まで持っていた枠組みとは異なる新たな思考ツールとなり得ると書きましたが、
 それだけでなく、自らを縛っていた枠組みから解放してくれる感じもするのです。

 外国語を学ぶことによって、
 閉じ込められていた枠に、ちょっとだけ、隙間を空けることができるのです。
 それまでの自分から、ちょっとだけ、自由になれるように思うのです。

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